幹事・里中です。
本日は、とある建設関連企業社長様のお話。
-------------------------------------------------------
物心ついた時から、母はずっと倫理法人会に入っており、熱心に学んでいた。
「アホか!何が倫理や」
自分は全く興味もなく、少し鬱陶しいほどだった。
土建屋の父親と倫理に熱心な母の間に生まれ、学生時代まで不自由なく育てられ、居心地は良かった。
だが、17歳になった時、一つ目の苦難が降りかかることになる。
父親が蒸発した。
当時17歳で高2。「飲む、打つ、買う」の3拍子揃った父親は自分には鬱陶しい存在にしか思えなかったので、数日間はせいせいした気持ちの方が勝っていたが、それでも帰らない日が増えていくとある日叔父が
「覚悟だけはしとけよ」
そう言われた。いまいちピンとこなかったが、はいはい覚悟ねという感じで軽く考えてた。
後日、突如学校にかかってきた母親からの電話。代わると受話器の向こうで号泣する母に、すぐ事態を飲み込んだ。
「親父、死んだんか」
山奥で自らの命を絶ったとのことだった。
最初は、正直何の感情も浮かばなかった、というか、せいせいした気持ちすらあった。
だが家に帰ってきた親父の遺体と向かい合った時、初めて泣いた。
そして怒りの感情がこみ上げてきた。
「俺たち家族や会社の仲間を放って行きやがって!!」
悲しみながらも、家族のこれから、そして土建業を営んでいた故にその会社をどうするか、話合いが進むうちに会社もたたむ方向で進んでいったが、自分はとっさに
「俺が会社をつぐ!!!」
と言った。
だが当時17歳。いきなり社長になれるわけもなく、すかさず母親が
「息子が継ぐまで、私が継ぎます」
そう言った。そして41歳になった時、正式に代表として会社を継いだ。
あの時の決意がなかったら、今の会社はなかった。
社長になる少し前に倫理法人会に入会。熱心に学んでた母からの勧めだった。
当時青年会議所で10年ほどやってきたが、組織の人間関係を学ぶために倫理法人会で学ぼうと決めた。
入会1ヶ月後、すぐに富士研修所への2泊3日セミナーに申し込む。
そこでの体験が、非常に心に残っている。
ピラミッド型の空気の凛とした部屋に入り、マットに横たわる。
「赤ちゃんまで戻ってください。そしてだれかにギュッと抱きしめられています。だれの顔が浮かびますか?」
記憶を辿り、自分の人生を遡る。
そして出てきた顔は、死んだ親父だった。
流したこともないような大粒の涙が、とめどなく流れ落ちた。
「親父、ごめん!!会いたい!!!」
親父が蒸発する三日前、実は親父から「将棋でもせんか?」と言われ、
17歳だった自分はウザさもあり「忙しいで上行くわ」と自分の部屋につっけんどんに返し入ってしまった。最後の最後に、息子からそんな冷たい仕打ちを受けた父親、今は気持ちが痛いほどわかる。さぞきつかったろう。辛かったろう。。
そして大粒の涙を流しながら、大きな後悔に苛まれた。
部屋に帰ると、不思議と父親への恨みの気持ちは全くなくなっていた。
それが、富士研修所での体験だった。
母親が癌になったのは、それからすぐ、自分が所属する倫理法人会の会長になった時だった。
2つ目の苦難がやってきた。だが倫理法人会で学んだことに
”病気になったら、おめでとうという時代”
というのがあり、母におめでとうと言ったら「そやね」と笑ってた。
そこから母は毎日のようにほうきや塵取りを持って出かけるようになった。
毎日親父の墓に行って墓の掃除をすると同時に、道中の色々な場所を掃除して回っていた。
倫理指導(※倫理法人会員が受けることのできる相談・指導)で自分のやりたいことをしなさいといわれた結果、掃除して回っていた。
自分も倫理指導を受けようと思い、相談した。
「母が癌になりました。どうすれば良いですか」
帰ってきた言葉が
「人生には限りがあります。母親が亡くなる準備をしてください。必ず母は亡くなります」
どこか「こうしなさい、癌が解放に向かいます」的な言葉を期待してた所もあったので、肩透かしの印象だった。でもそのおかげで覚悟ができた。
ある日、母も徐々に動けなくなり、車椅子で病室から外をみてる母に
「お母さん、産んでくれてありがとうございます」
お礼を初めて言い、母は涙を流していた。
その10日後、母も旅立った。
死ぬ10日前にしか母親に感謝を伝えれなかった自分を恥じた。
3つ目の苦難が、リーマンショック。
会社の売上が半減。正直キツかった。
どうにもこうにもならなく、再び倫理指導を受けることに。
「忙しくてできなかったこと、ありますか?」
そういえばずっと母親からも言われていた、会社の倉庫の整理が出来ていなかった。なので会社の倉庫整理を始めることにした。会社の朝礼も変えて、活力朝礼も始めた。
そうして数年後、起きたのは3.11の東日本大震災。だが会社の倉庫を整理していたおかげで被害を受けた住宅の家財の一時避難先として活用でき、そこから仕事を受けることも出来た。
指導を受けた内容も、結果的には会社の苦難を助けてくれるアドバイスにつながった。
3つの大きな苦難=人生のピンチを受け、倫理法人会で学んできた事が生き、さらに深く理解でき学べたことを感じた。
とある人からの言葉をモットーにしている。
「ピンチはチャンスやない、ピンチはピンチなんや。それをどう受け取るかを学んでいるんやから、まともに受けなさい。苦難はにっこり笑って、ゆっくり受けなさい」
------------------------------------------------------------------
多感な高校時代に、家族との普通ではない別れを経験し、やはりそれは大きな心の傷として蓋をしていたのですね。でもその傷は
やがて自分を高める大きな糧として昇華していく、それこそが今回の学びだったように思います。
倫理法人会に入ってくる人は、本当に様々な苦しみ、悲しみを持った人が多い気がします。だからこそ学びたいという意欲につながるのかもしれないですね。

本日は、とある建設関連企業社長様のお話。
-------------------------------------------------------
物心ついた時から、母はずっと倫理法人会に入っており、熱心に学んでいた。
「アホか!何が倫理や」
自分は全く興味もなく、少し鬱陶しいほどだった。
土建屋の父親と倫理に熱心な母の間に生まれ、学生時代まで不自由なく育てられ、居心地は良かった。
だが、17歳になった時、一つ目の苦難が降りかかることになる。
父親が蒸発した。
当時17歳で高2。「飲む、打つ、買う」の3拍子揃った父親は自分には鬱陶しい存在にしか思えなかったので、数日間はせいせいした気持ちの方が勝っていたが、それでも帰らない日が増えていくとある日叔父が
「覚悟だけはしとけよ」
そう言われた。いまいちピンとこなかったが、はいはい覚悟ねという感じで軽く考えてた。
後日、突如学校にかかってきた母親からの電話。代わると受話器の向こうで号泣する母に、すぐ事態を飲み込んだ。
「親父、死んだんか」
山奥で自らの命を絶ったとのことだった。
最初は、正直何の感情も浮かばなかった、というか、せいせいした気持ちすらあった。
だが家に帰ってきた親父の遺体と向かい合った時、初めて泣いた。
そして怒りの感情がこみ上げてきた。
「俺たち家族や会社の仲間を放って行きやがって!!」
悲しみながらも、家族のこれから、そして土建業を営んでいた故にその会社をどうするか、話合いが進むうちに会社もたたむ方向で進んでいったが、自分はとっさに
「俺が会社をつぐ!!!」
と言った。
だが当時17歳。いきなり社長になれるわけもなく、すかさず母親が
「息子が継ぐまで、私が継ぎます」
そう言った。そして41歳になった時、正式に代表として会社を継いだ。
あの時の決意がなかったら、今の会社はなかった。
社長になる少し前に倫理法人会に入会。熱心に学んでた母からの勧めだった。
当時青年会議所で10年ほどやってきたが、組織の人間関係を学ぶために倫理法人会で学ぼうと決めた。
入会1ヶ月後、すぐに富士研修所への2泊3日セミナーに申し込む。
そこでの体験が、非常に心に残っている。
ピラミッド型の空気の凛とした部屋に入り、マットに横たわる。
「赤ちゃんまで戻ってください。そしてだれかにギュッと抱きしめられています。だれの顔が浮かびますか?」
記憶を辿り、自分の人生を遡る。
そして出てきた顔は、死んだ親父だった。
流したこともないような大粒の涙が、とめどなく流れ落ちた。
「親父、ごめん!!会いたい!!!」
親父が蒸発する三日前、実は親父から「将棋でもせんか?」と言われ、
17歳だった自分はウザさもあり「忙しいで上行くわ」と自分の部屋につっけんどんに返し入ってしまった。最後の最後に、息子からそんな冷たい仕打ちを受けた父親、今は気持ちが痛いほどわかる。さぞきつかったろう。辛かったろう。。
そして大粒の涙を流しながら、大きな後悔に苛まれた。
部屋に帰ると、不思議と父親への恨みの気持ちは全くなくなっていた。
それが、富士研修所での体験だった。
母親が癌になったのは、それからすぐ、自分が所属する倫理法人会の会長になった時だった。
2つ目の苦難がやってきた。だが倫理法人会で学んだことに
”病気になったら、おめでとうという時代”
というのがあり、母におめでとうと言ったら「そやね」と笑ってた。
そこから母は毎日のようにほうきや塵取りを持って出かけるようになった。
毎日親父の墓に行って墓の掃除をすると同時に、道中の色々な場所を掃除して回っていた。
倫理指導(※倫理法人会員が受けることのできる相談・指導)で自分のやりたいことをしなさいといわれた結果、掃除して回っていた。
自分も倫理指導を受けようと思い、相談した。
「母が癌になりました。どうすれば良いですか」
帰ってきた言葉が
「人生には限りがあります。母親が亡くなる準備をしてください。必ず母は亡くなります」
どこか「こうしなさい、癌が解放に向かいます」的な言葉を期待してた所もあったので、肩透かしの印象だった。でもそのおかげで覚悟ができた。
ある日、母も徐々に動けなくなり、車椅子で病室から外をみてる母に
「お母さん、産んでくれてありがとうございます」
お礼を初めて言い、母は涙を流していた。
その10日後、母も旅立った。
死ぬ10日前にしか母親に感謝を伝えれなかった自分を恥じた。
3つ目の苦難が、リーマンショック。
会社の売上が半減。正直キツかった。
どうにもこうにもならなく、再び倫理指導を受けることに。
「忙しくてできなかったこと、ありますか?」
そういえばずっと母親からも言われていた、会社の倉庫の整理が出来ていなかった。なので会社の倉庫整理を始めることにした。会社の朝礼も変えて、活力朝礼も始めた。
そうして数年後、起きたのは3.11の東日本大震災。だが会社の倉庫を整理していたおかげで被害を受けた住宅の家財の一時避難先として活用でき、そこから仕事を受けることも出来た。
指導を受けた内容も、結果的には会社の苦難を助けてくれるアドバイスにつながった。
3つの大きな苦難=人生のピンチを受け、倫理法人会で学んできた事が生き、さらに深く理解でき学べたことを感じた。
とある人からの言葉をモットーにしている。
「ピンチはチャンスやない、ピンチはピンチなんや。それをどう受け取るかを学んでいるんやから、まともに受けなさい。苦難はにっこり笑って、ゆっくり受けなさい」
------------------------------------------------------------------
多感な高校時代に、家族との普通ではない別れを経験し、やはりそれは大きな心の傷として蓋をしていたのですね。でもその傷は
やがて自分を高める大きな糧として昇華していく、それこそが今回の学びだったように思います。
倫理法人会に入ってくる人は、本当に様々な苦しみ、悲しみを持った人が多い気がします。だからこそ学びたいという意欲につながるのかもしれないですね。
